メンタルヘルス不調の問題を抱える社員に対する使用者の安全配慮義務
目次
1 メンタルヘルス問題
近年、職場でのメンタルヘルス不調は深刻な社会問題となっています。長時間労働や過重なノルマ、人間関係やハラスメントなど、さまざまな要因がストレスとなって、うつ病や適応障害などの精神疾患を発症するケースが増加しています。
労働者がメンタルヘルス不調に陥ると、業務パフォーマンスの低下や長期の休職・離職につながりかねないだけでなく、労働災害として認定され、安全配慮義務違反による損害賠償などのリスクが生じます。
本記事では、メンタルヘルス不調に関する問題について、使用者の安全配慮義務の法的根拠や違反の判断基準、実際の裁判例、そして企業が果たすべき具体的な対応について解説します。加えて、パワーハラスメントやカスタマーハラスメントなどに対する企業の義務や留意点についても取り上げます。
2 安全配慮義務違反
(1) 安全配慮義務とは
安全配慮義務とは、使用者が、労働契約に付随して労働者に対し安全かつ健康に働くことができるように配慮する義務です。これは、労働契約法(第5条)で定められています。安全配慮義務は、単に物理的な安全確保(災害防止など)にとどまらず、労働者が精神的にも健康でいられるように必要な措置を取る義務を含む、非常に広い範囲をカバーするものと解されています。
(2) 安全配慮義務違反の判断基準
企業が安全配慮義務を果たしているかどうかは、以下のような観点が総合的に考慮されます。
1. 予見可能性
従業員がメンタルヘルス不調に陥るリスクを、企業が事前に知り得たまたは知り得るべき状況だったかどうか。
2. 結果回避可能性
適切な対策(業務量の調整、配置転換、産業医面談の実施など)を取っていれば、メンタルヘルス不調を回避または軽減できたといえるかどうか。
3. 因果関係
安全配慮義務違反とメンタルヘルス不調との間に因果関係があるかどうか。
3 企業が果たすべき安全配慮義務とその内容について
(1) 電通事件(最高裁平成12年3月24日判決)
事案の概要
電通の労働者が、入社後約1年5か月後に自殺したことら、労働者の父母が、電通に対し、深夜早朝に及ぶ長時間労働を強いられたためうつ病に陥り、その結果自殺に追い込まれたとして、損害賠償を請求しました。
裁判所の判断
「使用者は、その雇用する労働者に従事させる業務を定めてこれを管理するに際し、業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことがないよう注意する義務を負うと解するのが相当であり、使用者に代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う権限を有する者は、使用者の右注意義務の内容に従って、その権限を行使すべきである。」
ポイント
本件では、電通は、長時間の時間外労働が常態化している状況を認識しながら、負担を軽減させるための措置を取らなかったことが問題視され、安全配慮義務違反が認められました。
この電通事件は、企業の過重労働対策の不備が従業員のメンタルヘルスに深刻な影響を与える可能性があることを示し、企業の安全配慮義務が厳しく問われるきっかけとなった代表的な裁判例です。
(2) 企業がとるべき安全配慮義務
企業には、労働者が健康を害することなく就業できるよう以下のような措置をとることが求められます。
1. 労働時間管理
長時間労働の防止、休暇取得の推奨などを徹底し、労働者の負担を過度に増やさないようにします。
2. 適切な人事配置
従業員の能力や適性、健康状態に応じた業務分担や配置転換を検討し、過度のストレスを与えないようにします。
3. 産業医・カウンセラーとの連携
産業医との面談やストレスチェック制度を整備し、早期にメンタルヘルス不調を発見・ケアできる体制を構築します。
4. ハラスメント防止研修・相談窓口の設置
パワハラ、セクハラなど各種ハラスメントを防止するための社内研修を実施し、万が一ハラスメントが発生した場合には迅速に対応できる相談窓口を設置します。
(3) パワーハラスメントによるメンタルヘルス問題と安全配慮義務
近年、職場で大きな社会問題となっているのがパワーハラスメント(以下「パワハラ」といいます。)です。上司や先輩などが自らの職務上の地位や権限、人間関係上の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて叱責・侮辱・過度の追及などを行い、被害を受けた従業員が精神的に追い詰められるケースが増えています。
• 予防策・教育
企業は、パワハラ防止のための研修やガイドラインを整備するとともに、具体的な相談窓口を設けるなどの予防策を講じる必要があります。
• 早期発見・是正
パワハラが疑われる状況があれば、迅速かつ公正な調査を行い、被害者のケア、加害者の処分・指導を徹底しなければなりません。
• 安全配慮義務との関係
パワハラによって従業員が精神疾患を発症した場合、企業がこうしたリスクを認識できたにもかかわらず何ら適切な措置を講じなかったと評価されると、安全配慮義務違反として損害賠償責任を負う可能性が高くなります。
(4) カスタマーハラスメントによるメンタルヘルス問題と安全配慮義務
近年増えている「カスタマーハラスメント(以下「カスハラ」といいます。)」にも注意が必要です。顧客や取引先などからの理不尽なクレームや過度な要求によって従業員が心理的負担を受け、うつ病などのメンタルヘルス不調を起こすケースが増加しています。
• 対応マニュアルの策定
カスハラが発生した場合の対応手順や窓口をあらかじめ明確に定め、従業員が適切に対処できるようにします。
• 管理職やリーダーによるサポート
カスハラを受けた従業員に対して、業務分担の見直しや配置転換など、迅速にフォローを行う体制を整えます。
• 法的手段も含む適切な対処
悪質なカスハラが継続する場合、法的措置の検討も含め、従業員の健康と安全を最優先に考えた対応が求められます。
カスハラによるメンタル不調についても、企業が必要かつ適切な防止・救済措置を講じなかったと判断されると、安全配慮義務違反に問われる可能性があります。
4 企業がメンタルヘルスに関して把握すべき情報
(1) 東芝(うつ病・解雇)事件(最高裁平成26年3月24日判決)
事案の概要
うつ病に罹患して休職し休職期間満了後に解雇された労働者が,うつ病は過重な業務に起因するものであって解雇は違法,無効であるとして,東芝に対し,安全配慮義務違反等による債務不履行または不法行為に基づく休業損害や慰謝料等の損害賠償等を求めました。
裁判所の判断
「業務の過程において,上告人が被上告人に申告しなかった自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる。使用者は,必ずしも労働者からの申告がなくても,その健康に関わる労働環境等に十分な注意を払うべき安全配慮義務を負っているところ,上記のように労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には,上記のような情報については労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提とした上で,必要に応じてその業務を軽減するなど労働者の心身の健康への配慮に努める必要があるものというべきである。」
「以上によれば,被上告人が安全配慮義務違反等に基づく損害賠償として上告人に対し賠償すべき額を定めるに当たっては,上告人が上記の情報を被上告人に申告しなかったことをもって,民法418条又は722条2項の規定による過失相殺をすることはできない」
ポイント
本判決は,通院や病名等などの精神的健康に関する情報は,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には,労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提として,必要に応じてその業務を軽減するなどの労働者の心身の健康への配慮に努める必要があり、上記の情報を申告しなかったことを重視すべきではないとしました。
(2) メンタルヘルスに関する情報把握のために企業がとるべき対応
1. 定期的な面談や健康状況の確認
上司や人事担当者による定期面談、産業医面談の機会を設け、従業員がストレスを訴えやすい環境づくりを行います。
2. ストレスチェック制度の活用
労働安全衛生法に基づくストレスチェックを適切に実施し、結果に応じたケアを徹底します。
3. プライバシー保護
メンタルヘルスに関する情報はプライバシー性が高いため、取り扱いには注意を要しますが、適切な管理体制のもとで関係部署と必要最小限の情報を共有し、早期対応につなげることが大切です。
5 メンタルヘルス不調の問題を抱える社員への懲戒手続
(1) 日本ヒューレッド・パッカード事件(最高裁平成24年4月27日判決)
事案の概要
就業規則所定の懲戒事由である正当な理由のない無断欠勤があったとの理由で諭旨退職処分を受けた従業員が,日本ヒューレット・パッカード株式会社に対し,処分無効を主張して雇用契約上の地位の確認等を求めました。
裁判所の判断
「このような精神的な不調のために欠勤を続けていると認められる労働者に対しては,精神的な不調が解消されない限り引き続き出勤しないことが予想されるところであるから,使用者である上告人としては,その欠勤の原因や経緯が上記のとおりである以上,精神科医による健康診断を実施するなどした上で(記録によれば,上告人の就業規則には,必要と認めるときに従業員に対し臨時に健康診断を行うことができる旨の定めがあることがうかがわれる。),その診断結果等に応じて,必要な場合は治療を勧めた上で休職等の処分を検討し,その後の経過を見るなどの対応を採るべきであり,このような対応を採ることなく,被上告人の出勤しない理由が存在しない事実に基づくものであることから直ちにその欠動を正当な理由なく無断でされたものとして諭旨退職の懲戒処分の措置を執ることは,精神的な不調を抱える労働者に対する使用者の対応としては適切なものとはいい難い。
そうすると,以上のような事情の下においては,被上告人の上記欠勤は就業規則所定の懲戒事由である正当な理由のない無断欠勤に当たらないものと解さざるを得ず,上記欠勤が上記の懲戒事由に当たるとしてされた本件処分は,就業規則所定の懲戒事由を欠き,無効である」
ポイント
本件では、「診断結果等に応じて,必要な場合は治療を勧めた上で休職等の処分を検討し,その後の経過を見るなどの対応を採るべき」とされ、このような措置を取らなかった懲戒処分が無効とされました。企業による一方的な判断だけで懲戒処分を行うのではなく、産業医の意見聴取や配置転換の検討など、可能な限りの措置を講じる必要があります。
(2) メンタルヘルス問題を抱える社員を懲戒処分する際の注意点
1. 懲戒事由と健康状態を慎重に区別する
勤怠不良や業績不振がメンタル不調に起因している場合、直ちに規律違反として懲戒するのは危険です。まずは医療的・専門的見地から健康状態を把握することが必要です。
2. 段階的な指導・フォローの実施
いきなり懲戒ではなく、口頭注意、文書注意、配置転換などを検討し、改善のための機会を与えたうえで慎重に判断します。
3. 産業医や弁護士への相談
判断に迷う場合は、専門家の意見を取り入れながら適切な懲戒手続を進める必要があります。
4. 相当性・社会通念上の妥当性
重すぎる処分は後日裁判で無効となるリスクがあります。処分を行う場合は、客観的に見て妥当な範囲に収めるよう配慮が必要です。
6 おわりに
メンタルヘルス不調を抱える従業員への対応は、企業の社会的責任だけでなく、リスク管理の面でも非常に重要な課題です。パワハラやカスハラなどの新たな問題にも適切に取り組まなければ、電通事件のように安全配慮義務違反を問われ、高額な損害賠償責任が発生することもあり得ます。
特に、うつ病などの精神疾患を抱える従業員を解雇や懲戒処分とする場合、十分な情報収集や医学的見地に基づく判断を怠ると、東芝事件や日本ヒューレッド・パッカード事件のように解雇が無効とされるリスクが生じます。企業側としては、メンタルヘルス不調の早期発見と適切なケアを行い、安全配慮義務の履行に努める必要があります。
しかし、実際の対応では、産業医・カウンセラー・社内外の専門家との連携や、複雑な法的判断が求められる場面が少なくありません。万一、トラブルが深刻化したり、懲戒処分の是非に悩んだりする場合は、できるだけ早い段階で、この分野に詳しい弁護士に相談することをおすすめします。専門家の助言を得ることで、従業員の権利と企業の利益をともに守りながら、円滑な労務管理が実現できるでしょう。